―――――総司は何処だ。
副長で在る土方歳三は後処理に追われ乍そう呟いた。
不愉快そうな低い声は、獣が唸る様な其に類似為ている。
其れを耳に入れた局長で在る近藤勇は、眉を下げる様に為て笑い、
土方に怒鳴られては適わないと逃げ出してしまった弟分を探す。
一度、近くの宿迄引き上げねば為らない。
怪我人を屯所へ引き揚げさせるのも、隊士達を移動させる事も、
疲れ切った今では夜の暗闇は余りに危険だ。
特に総司は斬り込みの途中で昏倒して仕舞ったのだから、
目の前の幼馴染が心配するのも無理は無いだろう。
兄貴分で在る近藤と土方は、総司を捜す様に視線を張り巡らせ、
妙に静けさに満ちる奥の―――廊下に気付いた。
茹だる様な夜だ。
為ど其処だけが、張り詰める様に冴えている。
何か、腥い馨が鼻腔を衝いた気がして、二人は僅かに顔を顰めた。
昏い、昏い廊下だ。何故か一歩、進んだだけで淀んだ空気が絡み付く。
其れが気持ち悪くて仕方が無かったが、其の先に、捜し者が必ずいる様な気がしていた。
―――何故だろうそんなに、長い距離では無かった筈だ。
けれど昏い廊下を進む息苦しさに近藤、土方は言葉を紡ぐ事が出来なかった。
其の奥、闇の中だというのにぽかりと浮かぶ様な真白い突き当りの前、
此方を振り返り顔を輝かせた総司を見た時、漸く二人は安堵した。
「 如何したんだ御前達。そんな処で 」
重苦しい空気を掃う様に、近藤は笑って声を掛けた。
けれども、其の声に振り向いたのは総司だけだ。
其の奥、雷弥は顧みる事もしなかった。
まるで、“其れ”から、視線を外す事を恐れる様に。
いぶかしんだのは土方だった。
雷弥の前には真白い壁しか存在していない。
何度見ても、何度見ても、不自然な程に真白く、飛散る赤を途切れさせた壁しか、存在していないのだ。
そう、飛散るべき赤の先をまるで無かったかのようにして、ぽつんと存在為る真白い壁しか。
「、天響、 !! 」
ざわり、と胸がざわめいた。膚を、胸をざわつかせる何かが、迫っている。
土方は反射的に雷弥へと指を伸ばした。
総司を押し退け筋張る指が空気を切り裂く様に伸びる。
きィ―――、ん
同時に、雷弥は刀の鯉口故、鈍色を滑らせた。
低い、音が一瞬の静けさの後、に訪れて。
その場にいた全員が斬った、と確信を持ったのと、
目の前に迫った“何か”が、にぃやり、と嗤ったのは、同時、
雷弥の身体が、力強い何かに引かれたのは其の時だった。
何か、目の前の何か。
斬った筈の何かが、腕だけを伸ばし、ずりずり、ずりずり、と雷弥の身体を引き寄せて、いく。
駄目だ、と思うのに、茫然と為た心が、其の何かに触れられた瞬間に考える事、を已めた。
否、考える事が、出来なくなっていた。
唯真っ暗に、昏い、昏い闇にずぶずぶと飲み込まれてゆく。
ずりずり、ずりずり、ずり、 ずり。 ずり、 ずり、 ずり。
らいや、と叫んだ誰かの声が、聴こえた時。
雷弥は何かに腕を囚われた儘、昏い夜に全てを委ねる様に、意識を手放した。
「 雷弥、 !!!」
沖田を押し退けた土方が、雷弥に向かって手を伸ばす。
目の前に土方の羽織が広がって、そして次の瞬間には、目の前にいた筈の雷弥の姿は、何処にも無かった。
驚いたのは総司だけじゃない。
よろめいた総司を支えた近藤も、まるで幽霊の様に掻き消えた雷弥の姿に、目を見開いている。
見たものが、信じられなくて、手を、伸ばした筈なのに届かなかった土方は。
―――其の侭、目の前の白い壁を殴りつけた。
がっ 、
響く音はとても重く、隠し扉の類さえ見つける事は適わない。
手甲を付けた掌が、鋭く壁を殴りつける。其の後ろ姿を、近藤と沖田は茫然と見詰めていた。
「 糞、 っ 雷弥 … !! 」
がつり、と最後に一度、大きな打撃音が響く。
淀むような空気が、ふわりと舞い上がり、そして黙り込んだ三人の耳に――――
ひた、り。
足音と、何か重い物を引き摺る様な音が、聴こえたのだ。
其はすぐ、傍、真っ白い壁の向こう側から
ひた、り、 ずる、 り。 ひた、ひた、 ずる
、 ずる。
何も無い筈の壁の奥から。
ゆっくりと遠ざかっていく、足音。
解らない、其れが何かは解らなかったが、妙な確信だけが其処にあった。
壁の向こうから、現れた何かが、雷弥を引き摺り連れ去って、仕舞う
「 、 畜生、 !! 雷弥!! 雷弥、 っ、!! 手前、彼奴を何処へ連れていくつもりだ!!! 」
土方が、厚い壁を殴りつける。打撃音の中に交じる、足音。何かを引き摺ってゆくような、物音。
ぞわり、と背筋が、心の臓が冷え切る気持ち悪さを飲み込んだ時。
遠ざかる足音に交じり、微かな笑い声が聞こえて、 そして、消えた。
くす、くすくす。
ひたひたひた、 ひた ひた ひた
ずるずるずる、 ずる、 ずる、 ずる
くす、 くす、 く す
らいや、 と叫んだ、土方の声だけが壁の中に吸い込まれていった
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた
ずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずるずる
“其れ”は、まるで雷弥の重さを感じぬ様に、掴むと云うよりは絡み付く何、か
恐らくは、腕の様な物を使い、闇よりも濃い黒に飲み込まれた廊下を引き摺ってゆく
奥へ、奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ
光の届かぬ奥へ、奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ奥へ
引き摺られては、いけない、と思うのに目蓋が持ち上がらず、鉛が入った様に全てが儘ならない。
絡み付く何かが不愉快で、気持ち悪い。気怠さとは違う。
胸に渦巻く様な気持ち悪さと不愉快さに晒され乍、雷弥は小さく喘いだ。
呼吸音、衣擦れのかそけしき、音。
酷く身近にある其れが是の耳には届かぬのに、唯唯急く様に届く足音だけが近い。
腥い臭いが、絡み付く様に為て鼻腔を擽ってゆく。
奥、へ近付いているのだと段々と強く為る生臭さに理解する。
連れて、ゆかれれば仕舞いだ。
茫然と思う其は、きっと間違いでは無い。
奥へ、連れて逝かれてはいけない、
けれども、――腥さが、膚に走るぞわりと為た吐き気が、
強く為る度に絡め取られる樣に重くなる躯が、既に限界を越えていた
” らいや 、 !! “
意識が、途切れる。
其の隙間をぬって、追い縋る樣な土方の声が、聞こえた樣な気が、して
其は恐らく気の所為では在ったのだろうが、飲み込まれ掛けた意識が戻るには、充分な声だった
「 っ 、 ! 」
びくり、と震えるよに眸が、開く
ぎゅう、と握った掌に硬質な感触を覚えて。
其が何か解らぬ儘に無我夢中で腕に絡み付く“何か”を振り払う
ばしり、
響いた音は呆気ない程に軽く、
離れ、た っ
確信を持てど、振り払った反動で倒れてゆく身体は、力を込める亊もせぬ儘、横道に逸れる樣に闇を突き抜けて、
―――再び伸びてきた“何か”が己を捕らえるよりも早く、
もがく樣に倒れ臥した雷弥を突き刺したのは
絶望ばかりが満ちる腥い闇、では無く、
「 っ 、 」
暗闇を柔かに掻く、土の、濃い薫りだった
そして、 ざわ、と揺れる漆黒の、撓り …
茲は、どこだ、 呟いた声は音にすら為らず、 酷い倦怠感に、唯、息を詰まらせた。
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池田屋でトリップしたら、こんな感じでした。多分。(…。